津久見みかん物語

5月、日豊線を走る列車の窓を開けると、甘酸っぱいみかんの香りが漂う。列車が津久見の町に入ってきた知らせだ。みかん作りの老舗ともいえる津久見の町には、先人たちが開墾して人力で造った石積みの段々畑の風景がある。
津久見でみかん作りが始まったのは天平12年(740年)市内青江松川の仁藤仁佐衛門という人によるらしく、これが大分県の柑橘栽培のはじまりでもある。1157年青江蔵富の又四郎という人がこれを蔵冨地区の尾崎へ移植したものが、現在地元の人が、「尾崎小みかん先祖木」と呼ぶ日本で最高齢のみかんの木だ。樹齢850年のこの木は、昔は主幹が一本で幹周が2メートル近くもあったとされているが、慶長17年(1612年)8月の暴風雨で吹き倒されてからは地面に匍匐した格好をしている。地面に接したそれぞれの枝から次々に根が生えて、今ではどれが主幹か主枝かわからず、さながら小さな森のようになっている。戦争を経て、また幾多の暴風雨で枝が吹き折れながらも長い年月を生き永らえたこの先祖木は、みかん作りの歴史を見届けてきた神様のような存在だ。ともし火を絶やさないように作り手が代々受け継いで守っており、今も現役で実をつけ続けている。
実は津久見のみかんの歴史はこの伝承よりもずっと古いと伺わせる伝説も残っている。初代神武天皇が東征の節、津久見湾を眺めるために船を今の保戸島に寄せて山に登り、その際住民がみかんを献上したというものだ。本当であれば古事記や日本書紀に記されている日本にみかんの木の原形が伝わった頃よりも前に、津久見でみかんが作られていたことになる。農業技術の乏しい時代、天皇に献上するほど美味なみかんが存在していたとなれば、いかにこの地がみかん作りに適した土地かをうかがい知ることもできる。
津久見は冬でも温暖な気候で、山の中腹に開かれたみかん園は日照も土壌の水はけも良いため、糖度が高く風味良好なみかんができる自然条件が整っている。言い伝えによると藩政時代、青江地区の農家がみかんを牛や馬に背負わせて隣町の問屋へ出向く道中、子供たちがみかん欲しさに群がっていたという。戦中戦後コメ不足で困った時期も、みかんをコメの産地に持っていけば喜んで米と交換してくれ、どうにか米を確保することができたという話も聞く。
戦時中食糧づくりが優先されたことで一度は放置されたミカン園も多かったが、人々の心が落ち着いた昭和25年頃から再び農家の人たちのみかん作りがはじまり、津久見みかんの黄金期を築いていった。段々畑を見渡すと、標高300メートル近くの山々の頂上付近まで開墾された跡があり、わずかな土地を利用してでも精力的に作っていたことがわかる。そうした高低差のある畑は、手入れもさることながら、収穫したみかんを運搬するのも大変な作業だったと思われる。ケーブルやモノレールが導入される前の昭和30年頃まではカルイや背板といった運搬器具で人の肩に頼って運んでいたという。こうして手塩にかけて育てて運んだ津久見のみかんは、冷蔵庫のない時代、手作りの小屋の中で出荷の時期を待っていた。この小屋は「みかん小屋」といわれるもので、できるだけ長い期間、しかも最もおいしい時期に市場に出荷するために、考え尽された構造になっている。斜面に沿って半地下になっているのは、土中のバクテリアがみかんの熟成を促すため、北風や山の吹き下ろしを取り込んで室温調節を図ったと思われる風穴が存在する小屋もある。ほとんどが三和と呼ばれる土と石と石灰を混ぜ合わせたもので壁を塗りつけているが、その厚さは30センチほどあるため真夏でも中はひんやりする。室内には竹などを使って作られた棚があり、風通し、湿度、温度が絶妙の条件でみかんを貯蔵していたのだ。
見た目は無骨だが、それぞれの農家が土地にあわせて手作りした世界でたった一つの貯蔵小屋は今でも一つ一つの畑の一角に佇んでいる。少しでも美味しくみかんを市場に出そうと知恵をだした作り手の努力の証だ。こうした努力が東京市場でも高い評価を受ける津久見みかんブランドを確立したといってもいいかもしれない。津久見みかんの歴史は先人たちの汗と技、知恵の結晶なのだ。

長い年月を経て、みかんの存在は食卓や家庭であまりにも当たり前のものとなった。この歴史ある産地のみかん畑も作り手の高齢化の波に押されて少しずつ姿を変えている。作らなくなった木は切られその土地は藪と化している。「昔、みかんの害虫を捕えて農協へ持っていけば小遣いになった。」と子供の頃みかん畑で手伝いをしていたという若者が言っていた。今でもみかんを作らないと決めた農家は、残るみかんの木を守るために即座に木を切る。津久見では子どもからお年寄りまでがみかんの里を守り、みかんとともに生きてきた長い歴史がある。
段々畑のみかんの木々は、昔と変わらない穏やかな津久見の海を見下ろしながら、今年も見事なみかんを実らせることだろう。小みかんの先祖木が850年の歴史を刻んだように、この木々がこれから長い年月を歩むことを願ってやまない。